「お参りじまい」から気づかされた、お墓が持つ本当の存在意義
春のお彼岸ということもあって、うちもありがたいことに慌ただしくさせてもらっています。
そんな折、ふと心に深く残る出来事がありました。

最近、年配のお客さんと話していると「〇〇じまい」という言葉をよく耳にするようになった。
「年賀状じまい」や「実家じまい」、我々の業界で言えば「墓じまい」
そんな中でつい先日、「お参りじまい」という連絡をもらいました。
墓じまいっていうのは、お墓そのものを解体してお骨を移す、物理的なお片付けだ。 でもお参りじまいは、もっと心の内の話。
年齢を重ねて遠くまで行くのがしんどくなった方が、自分の意思で「定期的にお参りに行く」ことに区切りをつける。今まで見守ってくれてありがとうございましたって、感謝を伝えて心を整理すること。
そうやって心の中で明確に区切りをつけることで、「もうお参りに行けない」という罪悪感からふっと解放される。ある意味、大切な心の切り替えの儀式みたいなものなんですよね。
叔父のお墓参り
私の叔父は20年前に57歳という若さで他界したんだけど、その叔父には、それはもう仲の良い親友の方がいまして。 驚くことに、家族でも親戚でもないただの友人であるその方が、この20年間、毎年欠かさず叔父のお墓にお参りに来てくれていたんですよ。
その方も今年で77歳。
体力的に遠出が厳しくなってきたから、今年で「お参りじまい」にさせてほしい、というお話だった。
年に一度、亡き友と語り合って自分の人生を振り返る。彼にとってその時間は、きっとすごく大切なものだったに違いない。電話口でその決断を聞いて、思わず胸が熱くなりました。
この件で、私はお墓が持つ本当の存在意義をガツンと突きつけられた気がした。
実は叔父には子供がいなかった。 今の世の中の風潮だと、「跡継ぎがいないなら早く墓じまいしなきゃ」なんて急かされることが多い。 でも、もし遺族が亡くなってすぐに安易にお墓を壊してしまっていたら、どうなっていただろうか。 この親友の方は、亡き友へ想いを向ける場所を失い、語り合う空間をあっさりと奪われていたことになる。
お墓というのは、決して直系の子孫や「家」だけのものではないですよね。 故人が生前に深く関わった友人や知人、そんな人たちにとっても大切な場所なのだ。
言ってみれば、いろんな人の縁をつなぎとめる「心のアンカー」みたいなものなんだと思う。
だから、子供がいないお墓であっても、私ら身内が元気で管理できるうちは、外部の人たちとの縁をつなぐ場所として残していく。 自分たちが見ている限りは縁をつなぐという決意。それこそが、故人がこの世に生きた証を守っていくってことなんでしょうね。
「しまう」ことが正しいのか
最近はメディアの影響もあってか、過剰な危機感というか、「早く片付けなきゃ」という同調圧力をすごく感じる。
なんだか古い因習を打破するのが合理的で正しい、みたいに言われがちだけど、人の心や追悼の場って、そんな簡単な言葉で割り切れるものじゃないはずだ。
少し前にも、焦って相談に来られたお客さんがいた。 自分のお墓とは別に管理している戦没者のお墓を今のうちに墓じまいしてしまいたいという話でした。
でもね、よくよく話を聞いて調べてみると、そのお墓は毎年春と秋に、有志の会の方々によってきちんと合同供養が行われている場所だった。 その事実をお伝えしたら、お客さんは心の底からホッとされた様子でね。急いでお墓をなくすのはやめようと思いとどまってくれたんです。
遠くて行けないとか、残されたものに負担がかかるのではと焦る気持ちは痛いほどわかる。
でも、誰かがちゃんと手を合わせてくれているのに、世間の空気に流されて慌てて大事なつながりまで断ち切ってしまうのは、やっぱり少し違うではないでしょうか。
焦りからくる不要な喪失を食い止める。石屋として正しい情報を伝えて安心してもらうことこそが、プロとしての大きな役目なんだと痛感しました。
お墓は、ただ遺骨を納めておく石の箱じゃない。 故人と、その人を想ういろんな人たちを受け止めてくれる、とても懐の深い空間だ。
この令和の時代になっても戦争はなくならない。
今もイランが大変なことになっていたりする 。
亡くなった方の想い、縁が強制的に断ち切られる絶望。そういった感情の片鱗に少しでも触れることができたなら、世界はもう少し平和になるのではないか。
そうした機会の一つであるお墓をなくす風潮は、とても危険な思考に人を導いているのかもしれない。
ちょっと話は飛躍しましたが、今そこにあるお墓とそこに関わる人たちの想いを守る手助けをしていきたい。最近、気が付かされた出来事でした。

