弔いとは人情
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そこで見かけた葬祭系youtubeとしても様々は発信をしている佐藤葬祭さんのポストで
私が死んだら「葬式不要、戒名不要、墓不要で、みんなで美味しい物でも食べてくれればいいから」ってのはよく見るんだけど、これは子供達や夫や妻を「弔わない人」にするってことで「自分は弔われない者」になるって事なんです。不要って部分が多分ヤバイ。
— 佐藤信顕@葬儀葬式ch 日本一の葬祭系Youtuberです+減税会 (@satonobuaki) November 3, 2024
というものがありました。
これはほんとよく聞く言葉なんです。
そのスレッドを読んでいくとすごくしっくりくるワードがありました。
自分が祝ってくれとはいいにくいのと同じ構造で、弔いなんかっていうのは人情の部分であると思うんですが。不要っていう言い方がヤバい、それは拒絶だからです。祝も弔もしてもらえることで自分ですることではないというのが在り方で、不要と言えば関係の拒絶になるわけです。
— 佐藤信顕@葬儀葬式ch 日本一の葬祭系Youtuberです+減税会 (@satonobuaki) November 3, 2024
この「弔いなんかっていうのは人情の部分」というものです。
私もよく聞く不要論。我々は石材店なので墓不要はよく言われます。
コロナでお葬式の形態も大きく変わり、家族葬の形態が大きくシェアを伸ばしました。お墓も樹木葬が増えてきています。
そんな中でやはり引っかかるのが「弔い」なんです。
弔う気持ちは人が本来持っている感情なんです。宗教観とかは関係なしに備わっているものなんです。
ネアンデルタール人が亡くなった人を埋葬し花を添えていたということ化石の研究で唱えられています。何万年前からも普通に抱いてた感情をなぜこの数年で急速に押しとどめようとするのか。
残された人への対応であったり、金銭面であったり負担をかけないように、いわゆる「迷惑をかけたくない」ということだと思います。
しかし、人は今の社会では一人で死ぬことはできません。誰かがその後に対応をすることになります。
してもらうことは決して迷惑なんかじゃないんです。お互い様というものです。誰かのために何かをしてあげること。
これはまさに「人情」なんでしょう。
もちろんお葬式も戒名もお墓もいらないでもいいんです。ただ、その選択を奪わないでほしいと思います。
これは残された人の選択権なのです。
いまの世代の親はいわゆる高度経済成長期でお布施もお墓も高額払っていたケースを聞くことがあります。
葬式で〇百万お布施で払ったとか、〇百万のお墓を作ったとかいう話。それを自分たち、また子供たちに背負わせられないからいらないんだという。
でもこれってそういう時代だったし、払える人だったし、むしろそれがステイタスで自慢話の一つとして話していることがあったのでしょう。
三郷市近隣でも話を聞くことがありますが、その家はそういったお金を払っても今も普通に暮らせています。
問題となった一部の新興宗教のように家を売ってまでといった話は聞いたことがありません。
時代が変わったので同じようにする必要はないと思います。ですが、弔う場を奪い狭めるのはやめにしませんか?
人は忘れる生き物です。いい意味でも悪い意味でも忘れることが必要です。
だからこそ思い出すことができる「鍵」のようなものが必要なんです。
お葬式でたくさんきて大変だったという思い出も鍵となります。
仏壇や位牌、お墓もそうです。仏教の行事もそうです。思い出す鍵になります。
普段の生活の中で薄らいでいくもの、日常に流されていくもの、それを少し立ち止まらせてくれる鍵を持ちましょう。
鍵を捨ててしまったら思い出の引き出しを開けることができなくなってしまいます。
色々な情報に流され、急速に変化する時代だからこそ
古くから続いてきた意味のあるものを、ちょっと立ち止まって見直す余裕を持てるといいなと思っています。
人情を失わないよう心に余裕を持てる生活をしていきたいものです。
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